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落語の力で街を元気に。365日フル稼働の寄席「神戸新開地・喜楽館」笑いあり涙ありの地域活性化、7年の激闘

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当記事はSUUMOジャーナルの提供記事です

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落語の力で街を元気に。地域活性化を目的に誕生した寄席「神戸新開地・喜楽館」の笑いも涙もあった7年の激闘を振り返る

神戸市(兵庫県)の中心部へ10分以内でアクセスできる新開地。交通利便性の高さと下町らしい雰囲気が好まれる人気タウンです。しかし、新開地は一時期衰退し、さらに阪神・淡路大震災による甚大な被害を受けました。そのような沈滞ムードを払拭したのが演芸場「神戸新開地・喜楽館」の誕生。地域活性化を第一目標とし、NPO法人が運営するという極めて珍しい業態の寄席小屋です。7周年を迎えた喜楽館はどのようにして生まれたのか。支配人の伊藤史隆(いとう・しりゅう)さんと、新開地まちづくりNPO事務局長の藤坂昌弘(ふじさか・まさひろ)さんにお話を伺いました。

「神戸のB面」と呼ばれる街に誕生した寄席演芸場「神戸新開地・喜楽館」は新開地の商店街に誕生し、2025年に7周年を迎えた(写真/吉村智樹)

演芸場「神戸新開地・喜楽館」は新開地の商店街に誕生し、2025年に7周年を迎えた(写真/吉村智樹)

「人情味があって、ちょっと大人の雰囲気がある新開地には、落語がとてもよく合います。落語はイマジネーションの世界。新開地には空想をめぐらせる楽しさがあると思うんです」

そう語るのは2023年の春、演芸場「神戸新開地・喜楽館」の新支配人に就任した伊藤史隆さん(62)。伊藤さんはプロのアナウンサーと支配人の二刀流という異色の統括責任者です。

喜楽館の新支配人はアナウンサーの伊藤史隆さん(写真/吉村智樹)

喜楽館の新支配人はアナウンサーの伊藤史隆さん(写真/吉村智樹)

1905年に街が誕生し、2025年で120周年を迎える新開地。都心である神戸三宮から神戸高速線を利用して、わずか6分で「新開地」駅へ。新開地駅は阪神・阪急・神戸電鉄の結節駅で、神戸市内でも指折りの交通利便性を誇ります。

地下化した駅から地上へあがれば、駅をはさんで北西には新開地商店街、南東には新開地本通商店街が伸び、のんびりした雰囲気。日中でも飲酒できる気さくな店が並びます。国際的な観光地である三宮や北野などと比較してぐっと庶民的なムードに包まれ、そのため新開地は「神戸のB面」「裏神戸」と呼ばれる場合もあるのです。

新開地2丁目商店街に入ってすぐ目に飛び込んでくるのが演芸場「神戸新開地・喜楽館」(以降、喜楽館)の巨大な提灯。2018年にオープンし、2025年で7周年を迎えた喜楽館は、なんと1年365日フル稼働で上方落語を堪能できるという驚異の上演数を誇る寄席なのです。

アーケードに吊るされた大きな提灯が喜楽館の目印(写真/吉村智樹)

アーケードに吊るされた大きな提灯が喜楽館の目印(写真/吉村智樹)

喜楽館はなんと落語を365日鑑賞できる(写真/吉村智樹)

喜楽館はなんと落語を365日鑑賞できる(写真/吉村智樹)

「スタッフ全員、アイデアと気合いと根性でやっています」

そう語るのは、喜楽館を運営する新開地まちづくりNPO事務局長の藤坂昌弘さん(42)。新開地の変化を見つめ続け、喜楽館には「構想段階から関わっている」という、この街のキーパーソンです。

喜楽館を運営する新開地まちづくりNPO事務局長の藤坂昌弘さん(右)(写真/吉村智樹)

喜楽館を運営する新開地まちづくりNPO事務局長の藤坂昌弘さん(右)(写真/吉村智樹)

喜楽館で連日、開かれているのが昼席です。なんと365日公演。内容は基本的に開演前の前座1席と落語6席、色物(漫才などの諸芸)1席。毎週月曜日に新しい番組に入れ替わります。

開演は午後2時、終演はおおよそ午後4時20分。午後1時30分になると若手の落語家が商店街へ出て、開場を知らせる「一番太鼓」をドンドンドンとテンポよく叩きます。「お客さん、ドンドンドンと来い!」という願いを太鼓の音色に込めているのです。アーケードに鳴り響くリズミカルな音やパフォーマンスは、今や新開地の名物となっています。

開場を知らせる「一番太鼓」を叩くのは若手の落語家(写真/吉村智樹)

開場を知らせる「一番太鼓」を叩くのは若手の落語家(写真/吉村智樹)

伊藤史隆さん(以降、伊藤)「飲食店が立ち並ぶ商店街への波及効果を考えて、お客様が周辺の飲食店でお友達とランチをゆっくりと味わっていただけるよう、開演時間を午後2時に設定しました。終演後もお茶やお酒などを楽しめて、お開きになってもまだ午後7時。ちょうどよい公演時間だと思います」

昼から夕方にかけて興行を打つ喜楽館が誕生したことで、商店街にもたらした経済効果は確実にあったのだそうです。喜楽館が観客に対して行っているアンケートによると、神戸市外・他府県からの来場者数は14%にのぼるとのこと。年中無休の昼席公演は、来街者を新開地へ恒常的に誘致する役割を果たしていると言えます。通りをはさんで同館の南側に位置するとある居酒屋のオーナーは「喜楽館ができて客数が1.3倍くらい増えた」と語ります。

店側の姿勢も変わりました。これまで昼は閉めていた居酒屋が、喜楽館の誕生後はランチタイムを設けたり、単独男性客をメインとしていた店がグループ客に対応できるようテーブルのディスプレイを変更したり、業態が変化し始めたのです。それによって、特に女性客が増えたのだとか。

伊藤「新開地が、女性がお友達同士でわざわざ来たくなる街に変わってきていると感じます」

藤坂昌弘さん(以降、藤坂)「着物をお召しの女性3人が落語の話をしながら歩いているなど、商店街を通行する人たちの姿はずいぶん変わりました。また、電車の中で落語の話をしている人たちがいて、県外からわざわざお客さんが訪れてくださっているのを肌で感じます」

喜楽館が開館して以来、商店街に女性客が増えたという(写真/吉村智樹)

喜楽館が開館して以来、商店街に女性客が増えたという(写真/吉村智樹)

さらに喜楽館と商店街が連携し、公演チケットの半券提示でドリンクサービスなどを受けられる取り組みが行われ、現在19店舗が加盟しています。そういった対策の甲斐あって、酔漢が千鳥足で歩く商店街というイメージから脱却し、次第に女性、ファミリー、グループ客の利用が目につくようになってきたのです。顧客の幅が広がり、店舗はモチベーションを上げています。

喜楽館は新開地の活性化を目的に誕生した

では、喜楽館へ入ってみましょう。寄席というと和風建築を想像しますが、白いアーチが印象的なエントランスゲートや外観はハイカラな港町神戸をイメージして洋風になっています。

和風建築ではなく神戸らしい洋風のエントランス(写真/吉村智樹)

和風建築ではなく神戸らしい洋風のエントランス(写真/吉村智樹)

2022年に開館4周年を記念して設置された「メリケンさん」。記念撮影のポイントとして人気だ(写真/吉村智樹)

2022年に開館4周年を記念して設置された「メリケンさん」。記念撮影のポイントとして人気だ(写真/吉村智樹)

客席数は1階148席、2階62席、車椅子席2席の全212席。シートの色は港町神戸らしくマリンブルー。上演内容は昼席ならば上方落語、午後5時以降の夜席は主に企画ものや貸館。上方落語だけでなく東西落語、講談、浪曲などの諸芸、ジャズやダンスなどを幅広く楽しむことができます。

傾斜がしっかりとあり、2階席からでも鑑賞しやすい構造。神戸らしく海の青さを客席のシートにも反映している(画像提供/新開地まちづくりNPO)

傾斜がしっかりとあり、2階席からでも鑑賞しやすい構造。神戸らしく海の青さを客席のシートにも反映している(画像提供/新開地まちづくりNPO)

鉄道好きの落語家が集まる「鉄道ウイーク」などユニークな企画も目白押し。鉄道ウイークでは新開地を通る阪急、阪神、山陽、神鉄各社のオリジナルノベルティグッズが来場者に配布された(写真/吉村智樹)

鉄道好きの落語家が集まる「鉄道ウイーク」などユニークな企画も目白押し。鉄道ウイークでは新開地を通る阪急、阪神、山陽、神鉄各社のオリジナルノベルティグッズが来場者に配布された(写真/吉村智樹)

伊藤「寄席っぽくない、ホールのような外観にしたのは、僕は大正解だと思います。喜楽館は新しいことにチャレンジできる自由度が高い寄席であり、そのため音楽など多彩な表現にも対応できるよう、音響技師とともにさらに勉強しているところです」

喜楽館の特徴は外観や公演時間だけではありません。運営は新開地まちづくりNPOが行っています。NPO法人が寄席を開くなんてケースは、極めてまれでしょう。

藤坂「喜楽館の第一目的は当初から現在に至るまで“新開地エリアの活性化”です。『地域が元気になるようにやりましょう』と、上方落語協会と地元が手を取り合ってやってきました。NPO法人が寄席小屋を運営するなんて初めてでしたから、たいへんでした。目をつむると開館前の騒動の記憶が蘇ってきて、めまいがするんです(苦笑)」

ではなぜ、まちづくりの一環として寄席が開かれたのか。そこには波乱のドラマがありました。

過去には「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるほど繁栄

新開地とは、そもそもどのような街なのでしょう。新開地はその名の通り「新しく開かれた地」。

明治時代にこの地を流れていた旧・湊川の周辺は、たびたび洪水に襲われていました。新開地は、川の流れを変えるために埋め立てて開けた地なのです。現在の商店街は、そのまんま川だった場所なのだとか。

明治時代の現在地。氾濫する旧・湊川を埋め立てて新開地が生まれた(国文学研究資料館所蔵 画像提供/新開地まちづくりNPO)

明治時代の現在地。氾濫する旧・湊川を埋め立てて新開地が生まれた(国文学研究資料館所蔵 画像提供/新開地まちづくりNPO)

1905年(明治38年)の工事完了以来、埋め立て地には次々と演芸場や芝居小屋、活動写真館が誕生しました。その繁栄ぶりは「東の浅草、西の新開地」と謳われるほど。24軒もの劇場と200軒以上の商店が立ち並ぶ、娯楽の集積地となったのです。

新開地は明治時代から昭和30年代まで劇場が立ち並び、「東の浅草、西の新開地」と謳われるほど繁栄した(画像提供/新開地まちづくりNPO)

新開地は明治時代から昭和30年代まで劇場が立ち並び、「東の浅草、西の新開地」と謳われるほど繁栄した(画像提供/新開地まちづくりNPO)

全盛期だった大正から昭和30年代にかけては高さ90mもの「新開地タワー」がシンボルとして屹立。スケート場に水族館、大きな浴場と劇場が合体した、現代でいう健康ランドのような施設もありました。このようにまたたく間に西日本有数の歓楽街となった新開地は1945年(昭和20)の神戸大空襲でいったんは全焼しましたが、戦後の映画ブームの波に乗って映画館の開館が相次ぎ、再び興隆したのだそうです。

街のシンボルだった高さ90mもの「新開地タワー」。神戸タワーとも呼ばれた(画像提供/新開地まちづくりNPO)

街のシンボルだった高さ90mもの「新開地タワー」。神戸タワーとも呼ばれた(画像提供/新開地まちづくりNPO)

藤坂「新開地が繁栄したのは、沿岸部に川崎重工の工場があったことも理由の一つです(現在は大部分が移転し縮小)。通勤する人々の来街がとにかく多かった。朝は川崎重工へ向かう人たちの足音で地域住民が目を覚ましたほどだったと聞いています」

しかし、高度経済成長期に入り、新開地は急激に衰退の道をたどります。1957年(昭和32年)に神戸市役所が三宮を擁する中央区へ移転すると、次第に商業集積の密度が低くなってきたのです。1960年代後半(昭和40年代)になると一般家庭にテレビが普及し、映画館や演芸場への来客数に陰りが見えはじめ、劇場は次々と閉館してしまいました。

さらに1973年(昭和48年)、毎日三交代で大量の来街消費者を得ていた川崎重工の工場の多くが移転し、新開地の没落は決定的となりました。1995年(平成7年)には阪神・淡路大震災により地区の7割強が全半壊し、新開地は過去にない大きな打撃を受けてしまいます。

阪神・淡路大震災は新開地に甚大な被害を及ぼした(画像提供/新開地まちづくりNPO)

阪神・淡路大震災は新開地に甚大な被害を及ぼした(画像提供/新開地まちづくりNPO)

桂文枝に送った1通の手紙

そのような栄光と凋落の背景をもつ新開地に「街を元気にするために寄席小屋を開こう」という機運が生まれたのは2014年。喜楽館はただの寄席ではなく、はじめから地域活性化を担う役割があったのです。

では、地域活性化のために、なぜ寄席だったのでしょう。

藤坂「六代目桂文枝師匠(以降、文枝)が新聞に『大阪の天満天神繁昌亭がうまくいっている。そういった寄席を神戸にもつくって盛り上げたい』と語っておられた。その一言から、物語が動き出したんです」

この記事を見た商店街の寿司店の若手が「ぜひ新開地を候補地に」と文枝さんへ1通の手紙を送りました。その手紙には、40年以上前の新開地は演芸場があちらこちらにあってにぎわっていたこと、西日本屈指の歓楽街であったことなど、新開地での寄席の復活を切望する想いがつづられていたのです。

手紙を受け取った文枝さんをはじめ上方落語協会の面々は新開地を訪れ、街の様子や実現に向けての可能性について実地検分。いったんは候補に挙がり、検討のための会合が開かれました。しかし、協議を重ねるたびに問題点が見えはじめ、一度は断念せざるを得ない状況となったのです。

藤坂「誰もが寄席の建設に賛成していたわけではありません。最大の壁は『採算が取れるのか』という問題でした。成功の前例である大阪の天満天神繁昌亭は、そもそも活況を呈している天神橋筋商店街のそばにあります。それに反して、当時の新開地は人通りが少なくなっていた。全国的に箱もの建設への批判が高まっていた時期でもあり、『もしも赤字を出してしまったら、どうするのだ』という声も少なからずあったんです」

喜楽館の建設には反対の声も挙がったという(写真/吉村智樹)

喜楽館の建設には反対の声も挙がったという(写真/吉村智樹)

そうして賛否を問う投票が実施されました。ここで気勢を上げたのが新開地商店街振興組合です。

藤坂「組合の理事長さんたちが『新開地全域を盛り上げるチャンスなのに、ここで引き返すのはもったいない』と、実現へ向けて本当に頑張ってくださったんです。新開地は急激に衰退したのが特徴で、商店街の人たちのあいだに、よい時代の記憶が鮮明に残っていた。昔の地図を見ると、松竹座、松竹劇場、相生座、聚楽館(しゅうらくかん)など、劇場だらけなんです。そして商店街の人たちが、娯楽が人を呼ぶパワーを知っていた。それが大きかったですね」

その後、新開地の商店街と上方落語協会の双方の熱意にほだされた兵庫県、神戸市が協力する意向を示しました。そうして4者による検討が再開し、2016年の秋には(仮称)神戸新開地演芸場事業の推進が可決されたのです。

2017年3月には実現にむけて取り組んでいく趣旨の記者発表を行い、この様子を多数のメディアがとりあげました。5月になると国の助成制度の申請を行うとともに寄付集めの準備に入ります。そうして約2億円の建設費のうち国が1億円を補助し、兵庫県と神戸市が5000万円ずつ助成するかたちで一丸となり、いよいよ設計作業に着手したのです。

館の名称は1000通を超える応募の中から、かつて神戸市民に愛された複合娯楽施設「聚楽館」の「館」が使われている「神戸新開地・喜楽館」が選ばれました。

モダンな建築で神戸市民に愛されていた複合娯楽施設「聚楽館」。現在は建て替えられ、パチンコ店になっている(画像提供/新開地まちづくりNPO)

モダンな建築で神戸市民に愛されていた複合娯楽施設「聚楽館」。現在は建て替えられ、パチンコ店になっている(画像提供/新開地まちづくりNPO)

数々の障壁を乗り越え、ついに2018年7月にオープンした喜楽館。こけら落とし公演には名誉館長である文枝さんをはじめ豪華な顔ぶれが勢ぞろい。盛大な幕開けとともに順調な滑りだしを見せたのです。神戸在住で当時はアナウンサー専業だった現支配人の伊藤さんは、こう振り返ります。

伊藤「私が住んでいる神戸に落語の小屋ができると聞いたときは本当に嬉しかった。放送局を定年退職したら頻繁に通おうと思っていました」

「助けて!」新型コロナ禍で運営がピンチに

こうして新開地に新風を吹き込んだ喜楽館。ところが、新たな試練が待ち構えていました。それはコロナ禍です。

藤坂「劇場って出ていく金額がすごいんです。私が予算管理をしていて、毎日200席の6割が埋まれば採算がとれる運用設計だったので、コロナ禍で席数を半分以下の96席にした時点で『もう絶対にやっていかれへん』と追い詰められました。これまで4期にわたってご寄付を募ったのですが、第1期ではSNSで心から『助けて!』と叫んでしまったくらいです」

コロナ禍で運営が行き詰まり、SNSで「助けて!」と投稿するほど追い込まれた(写真/吉村智樹)

コロナ禍で運営が行き詰まり、SNSで「助けて!」と投稿するほど追い込まれた(写真/吉村智樹)

4カ月の休業を余儀なくされるなど危機に陥った喜楽館は寄付を求めるため、寄付金1万円で入場チケットを割引購入できる名刺100枚を進呈する「喜楽館タニマチ」制度を創設。また、地元放送局のサンテレビと提携して無観客ライブ中継も実施するなど、考えられうるあらゆる方法でしのいできました。

落語を愛する新支配人とともに体制を整備

そうして苦境を脱する糸口が少しずつ見えてきた喜楽館。実は喜楽館は長く支配人不在で運営していました。そこで抜本的な改革として、朝日放送のアナウンサーであり、ラジオ番組『日曜落語 ~なみはや亭~』のパーソナリティをつとめる伊藤史隆さんに支配人を依頼したのです。

伊藤「まさか自分が……という気持ちでした。私は会社員ですから、自ら施設を運営した経験はありません。そんな自分に支配人が務まるのかと、ずいぶん悩みました。ただ、殺し文句は『潰れるかもしれない』でした。コロナ禍以降は運営が本当に苦しそうで、今日にも閉館しかねない状況だったのです。『せっかく神戸に誕生した寄席がなくなるのは嫌だな。自分に何ができるかわからないけれど、お手伝いさせていただこう』。そんな気持ちで引き受けました」

「支配人を」と依頼され、ずいぶん悩んだという伊藤さん(写真/吉村智樹)

「支配人を」と依頼され、ずいぶん悩んだという伊藤さん(写真/吉村智樹)

伊藤さんは名古屋出身。落語との出会いはテレビでした。

伊藤「落語をおもしろいと思ったきっかけは、小学生のころに観た六代目三遊亭圓生の『佃祭』でした。おじいさんが一人で喋っているだけなのに、佃祭のにぎわいや、花火がバーンと打ちあがるイメージが頭にどんどん浮かんできましてね。『なんてすごい芸なんだ!』と驚きましたね。あの鮮烈な経験から、落語が好きになったんです」

伊藤さんは神戸大学経済学部へ進学し、落語研究会に所属します。高座名は「拡益亭喜冨」(かくえきていきっぷ)。学生時代に生の落語を鑑賞したり、自ら語ったりした経験はアナウンサーの仕事に大いに役立ったのだそうです。

伊藤「原稿を読むとき、どこを強調するかという勘どころは落語によって養われました。『米朝師匠はこう語っておられたな』『枝雀師匠はこうしていたな』と思い返しながら喋っています。人の心に届く話し方は落語から学んだと言って大げさではありません」

落語と切っても切り離せない人生を歩んだ伊藤さんは、2023年3月に朝日放送を定年退職。シニアスタッフとしてアナウンス部に残り、プロ野球中継や落語番組などを担当します。夜勤や宿直勤務もこなし、支配人になってからは泊まり明けに喜楽館へ向かう日もある兼業生活。「定年退職したら喜楽館へ頻繁に通いたい」、伊藤さんの夢は意外な形で実現したのです。

喜楽館へ着けばプログラムを考え、広報活動にいそしみます。午後2時の昼席前には玄関で客を出迎え、終われば見送る「会いに行ける支配人」。おじぎする姿も喜楽館の新たな魅力となっているのです。2024年には上方落語の次世代スターを発掘する賞レース「神戸新開地・喜楽館AWARD」を発足するなど、伊藤さんは藤坂さんたちスタッフと団結しながら地域と落語界の活性化に積極的に取り組んでいます。

「神戸新開地・喜楽館AWARD」初代チャンピオンの桂雀太さん(写真/吉村智樹)

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藤坂「新開地を愛する多くの人のお力があり、新しい支配人も決まり、7年かけてやっと体制が整った感じです。この7年を振り返ると、何一つ欠けても継続できなかったと思います」

7周年を迎えた7月11日、名誉館長の桂文枝さんや神戸市長らが駆けつけ、にぎやかに鏡開きが行われた(画像提供/新開地まちづくりNPO)

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落語家100人が集結。笑いの力で街が変わる

新開地は国勢調査によると来街者のみならず人口も増加し、特に20代~40代が伸びているという結果が出ています。その理由の一つに、喜楽館がもたらしたにぎわいがあるのかもしれません。

国勢調査による新開地地区の人口の変化(画像提供/新開地まちづくりNPO)

国勢調査による新開地地区の人口の変化(画像提供/新開地まちづくりNPO)

国勢調査による新開地地区の年齢別人口の変化(画像提供/新開地まちづくりNPO)

国勢調査による新開地地区の年齢別人口の変化(画像提供/新開地まちづくりNPO)

伊藤「喜楽館だけではなく、路地裏へ入っていくと若い女性のオーナーが営んでいるおもしろいBARがあったり、青年の店主さんのスパイスカレーの店ができたり、世代交代が始まっています。新開地は今、おもしろいですよ」

2025年に120周年を迎え、加えて大きな被害を受けた阪神・淡路大震災から復興30年目に当たる新開地。この大きな節目の年に「もっともっと笑いを届けたい」と、喜楽館は11月1日(土)・2日(日)に第1回「神戸落語まつり」を開催します。新開地全域のさまざまな施設で多数の落語会を同日開催し、およそ100名もの上方落語家が集結するという一大フェスです。

「きらく」に大笑いしたくて、訪れる街がある。そんな街が生まれているって素敵です。新開地は、まさに令和の「新しく開かれた地」だと筆者は感じました。

(写真/吉村智樹)

(写真/吉村智樹)

●取材協力
神戸新開地・喜楽館

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この記事のライター

SUUMO

『SUUMOジャーナル』は、魅力的な街、進化する住宅、多様化する暮らし方、生活の創意工夫、ほしい暮らしを手に入れた人々の話、それらを実現するためのノウハウ・お金の最新事情など。住まいと暮らしの“いま”と“これから= 未来にある普通のもの”の情報をぎっしり詰め込んで、皆さんにひとつでも多くの、選択肢をお伝えしたいと思っています。

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